2012年2月2日木曜日

アンドロイドと共演

『革命日記』のソウル公演、津公演を終えた。
これでこの演目ともしばらくお別れ。
2010年の5月からお世話になりました。

1月。
真冬のソウルは寒かった。
『ソウル市民』を終えたばかりの体に、現代のソウルは心身に染みずにはいられなかった。ソウルでのことは、時間をおいてまたあらためて記したいと思う。今は体験した感覚が尖りすぎていて、まだうまく触れることができないからだ。
時間をおいたからといってうまく言葉にできるとは思えないけれど。

たぶん公演の紹介の記事だと思うけど、写真付きで紹介された。
http://kr.news.yahoo.com/service/news/shellview.htm?articleid=2012011118555194980&linkid=4&newssetid=1352

次回の出演は、
2月15日(水)ロボティクス演劇祭でのアンドロイド演劇『さようなら Ver.2』。
1日だけの公演。
たしか無料。
新作の世界初演なんだけどね、地味に。
http://www.fringe-tp.net/robofes/

それで、こんど共演する女の子。
楽しい。
ぜんぜん楽しくないかもしれないと少し不安だったのだけど、楽しい。

まったく未体験の領域だけど、たぶんこれは、やりたかった領域。
そういう領域。




2011年10月6日木曜日

こちらにブログを書きました

ソウル市民五部作特設ブログ 「ゴブ作★部ブログ」
10月3日(月)『サンパウロ市民』&『ソウル市民1939・恋愛二重奏』通し稽古@アトリエ春風舎


* * * * * * * *


河村です。

今日(3日)は、新作2作の初通しでした。
『サンパウロ市民』それから『ソウル市民1939・恋愛二重奏』の順(僕は後者の方に出演しています)。

稽古日数10日足らず。
「まだ一回くらいしか稽古してないのにもう通しか」というのが正直な気持ちでした。というわけで、通しだったので何を書こうか迷っているのですが、まずは五部作各作品の、劇団内での通称でも紹介でもしてみようかな。

まず最初の三部作。

『ソウル市民』→ ソウル市民
『ソウル市民1919』→ いくいく
『ソウル市民・昭和望郷編』→ 望郷編

だいたいこんな感じです。
新作の方は、

『ソウル市民1939・恋愛二重奏』→
これはいまのところ、「恋愛」とか「恋愛二重奏」とか「いちきゅうさんきゅう」が多いのかな。
まだどれも定着してない感じ。

『サンパウロ市民』→
これは、今日の通しの後のダメだしをこっそりのぞいていたら、「パウロ」?「パウロさん」?になるっぽい。でも山内さんがすごくいやがってたな。ちなみにアクセントは、今風に「ロ」のとこです。違うか。フラットにパウロ??
あ、あ、マグロと同じイントネーションです。

さて、

この五部作の時代背景が、観に来てくださるお客さんの中で、どのように認識されているのかが、個人的には気になっています。
もちろん5本の作品たちは、それぞれフィクションであり、歴史に疎い方でも1作品ずつそれぞれ堪能していただける作りになっていると思います。それでも、やはり作品の背景は、明治から昭和へ激動の時代を10年ごとに駆け抜けるわけで、歴史や地理の知識は、史実の行間に想像力を忍ばせる一助にはなると思います。
たとえば、ノモンハンという単語が劇中で出てきて、さらーっと流れてしまうのと、身を隠すような木や葦もないだだっぴろい草原と土煙のにおいがふつとよぎるのとでは、ちょっと作品の受け方も変わるんじゃないかなぁと思うわけです。
ただでさえ歴史の授業ですっとばされてきた20世紀を、これを機に少し振り返っておくのも、いや、おかない手はないのではないかとさえ、思います。

というか、たぶん、「2011年」という年は、近現代において、日本人が自分たちの過去の歩みをもっとも謙虚さをもって振り返った年なのではないかと、そう思い、そう願うわけですが、だからこそその振り返ったまなざしと想像力を、もう少し遠くまでのばしてみてから、次の年を迎えるのもいいのではないでしょうか。

と、ちょっとかたい感じになってしまいましたけど、そんなわけで、僕からは、この1冊を紹介して、今回のブログ担当を終えたいと思います。
この本は、高校生への授業を収録したものなので、文章が口語体でとても読みやすいです。
20世紀前半のおよそ50年に渡る激動の時代を一気に読み抜けると思います。
観劇前にちょっと歴史をさらっておきたい方には(そういう方が少なくないんじゃないかと思うわけですが)うってつけの一冊だと思います。


2011年9月3日土曜日

青年団第64回公演『ソウル市民五部作連続上演』

10月29日(土)〜12月4日(日)吉祥寺シアター
 http://www.seinendan.org/seoul5/

五部作のうち、

『ソウル市民1919』
『ソウル市民昭和望郷編』
『ソウル市民1939恋愛二重奏』《新作》

に出演しています。
今風に言うと、シーズン2、3、4。

この演目をやりたくてこの劇団に入ったようなものなので、こうやってやらせていただけることに感謝の日々です。

僕は98年に広島でシーズン1を観て、俳優になろうと決意しました。
18歳のときでした。
そのころは、右肩下がりの社会が大事に至る前に、演劇で社会に投じられる一石があるのじゃないかと思って息巻いてましたが、もう目の前の世界はすっかり変わってしまったとも言えるし、昔っから何一つ変わっていないとも言えるようです。

そんなわけで、楽しみにしていたこの作品群に対するモチベーションは、1年前とはどこか、何かが変わってしまいました。

いまは、それが何なのか、僕自身がこの一連の作品群から何かを得たいと強く思ってます。

腐った体に群がるうじをピンセットで取りよけるような気持ち、といったら気分が悪くなるかもしれませんが、どこかそんな気持ちでいます。
そんな気持ちの悪いことに、今は没頭してみたいのです。

2011年5月24日火曜日

映画『歓待』公開情報



 第23回東京国際映画祭日本映画・ある視点部門で作品賞を受賞した話題作。いよいよ4月23日より東京渋谷を皮切りに全国順次ロードショー公開となります。
 下町の印刷所で、一見「平和」な生活を営む小林家の元にフラリと現われた胡散臭い訪問者・加川。のらりくらりと家族を煙に巻き、居座り、引っ掻き回していく。加川の横暴に戸惑いながらも、変化を余儀なくされていく小林家。
 次第に崩壊していく家族模様を、洗練されたユーモアで包みながら、時にシリアスに問題提起をし、時に爆笑を誘う。共同体と排除の問題を抱える現代日本を鋭く風刺しながら、家族とは何かを問い掛けていく。
 前作『東京人間喜劇』で注目された新進気鋭の深田晃司監督と、プロデューサーも兼ねる弱冠26歳の国際派女優杉野希妃、そして平田オリザ率いる青年団の演技派俳優たちによる、映画にしか成しえないテツガク喜劇。閉塞感を打破し世界を大きく掴むべく、怒濤の”グローカル”映画がいよいよ到来!

2011年4月23日よりヒューマントラストシネマ渋谷ほか、順次全国にて公開

【東京】
●ヒューマントラストシネマ渋谷 http://www.ttcg.jp/human_shibuya/
公開中~5月20日(金)21:25
●池袋シネマロサ http://www.cinemarosa.net/
5月21日(土)~ 10:30 / 20:30
【大阪】
●テアトル梅田 http://www.ttcg.jp/theatre_umeda/
公開中~5月20日(金)16:30
5月21日(土)~ 21:05
5月21日追加舞台挨拶決定。板倉善之(映画監督『にくめ、ハレルヤ!』)×杉野希妃(主演女優兼プロデューサー)
●シネ・ヌーヴォX http://www.cinenouveau.com/X/cinenouveau%20X.html 夏
【京都】
●みなみ会館 http://kyoto-minamikaikan.jp/ 6月11日
【兵庫】
●神戸元町映画館 http://www.motoei.com/ 7月下旬
【群馬】
●シネマテークたかさき http://takasaki-cc.jp/ 夏
【広島】
●八丁座 http://www.saloncinema-cinetwin.jp/theater/index.html

【キャスト】
山内健司 杉野希妃 古舘寛治 ブライアリー・ロング 兵藤公美 オノエリコ 松田弘子 河村竜也 菅原直樹 齋藤晴香 永井秀樹 林竜三 足立誠
近藤強 秋山建一 田原礼子 天明留理子 桜子 島田桃依 木崎友紀子

■チケット料金
前売1,200円 当日1,500円
【前売券販売場所】
●キノチケットカウンター(紀伊國屋書店 新宿本店5F 10:00~18:30)にて前売券¥1200発売中。
『歓待』公式webサイト: http://kantai-hospitalite.com/
公式Twitter: http://twitter.com/#!/kantai_2010

【スタッフ】
プロデューサー:杉野希妃・深田晃司 脚本・監督:深田晃司  芸術監督:平田オリザ
エグゼクティブ・プロデューサー:松原 治・足立誠・小野光輔・:宮田三清・:岩倉達哉
コエグゼクティブ・プロデューサー:榎本憲男
撮影監督:根岸憲一 美術:鈴木健介 録音:新垣一平 衣装:正金彩 メイク;石河恵
音楽:やぶくみこ・片岡祐介 助監督:飯島将史 スチール:やじまえり メイキング:太田信吾
企画・製作:㈲アゴラ企画/青年団・和エンタテインメント
96分 / 日本語 / カラー / HD / 2010年 /

2011年4月25日月曜日

伝えし者、伝えし物 〜被爆体験講話〜

2011年4月22日(土)

この日の広島市内上空は、一面が曇り雲に覆われていた。輪郭が見えないどんよりと濁った空は、遠くに見える山の稜線までも、ぼかしていた。
雨を降らせるタイミングをじっと見計らっているかのような、押し黙った、どこか静かな空だった。

パリから来日したフランス人演出家のクリストフ・フィアットに「ヒロシマと広島」を紹介するのが滞在の目的だった。創作する作品のモチーフに、ゴジラや原爆が扱われていたからだ。
ゴジラは若い世代には人類の味方として認知されているかもしれないけれど、もともとは第五福竜丸事件をきっかけに制作された水爆大怪獣特撮映画だ。核の落とし子、人間が生み出した恐怖の象徴として描かれている。
日本人も忘れてしまったそんなモチーフを、今、フランス人が扱おうとしている。

日仏の劇場によって、この国際交流プロジェクトは半年以上前から坦々と進められてきたのだけど、そうして、彼の初来日は、期せずして、地震と津波と原発事故の三害を一度に被った3.11以後の世界となった。



朝8時頃に東京を経ち、新幹線は4時間をかけて、じっくりと私たちを西へ運んだ。僕は2009年の誕生日にパリで友達からもらったある写真集に目を落としていた。アラン・レネが監督した『ヒロシマモナムール』の主演女優、エマニュエル・リバが撮影当時、1958年の広島を写した写真集だ。地元に土着した親しみあるまなざしが、「撮影者」と「被写体」の間で、たしかに往復している。写真集のページをめくる音が、まるでシャッター音に聞こえるくらい、気持ちが乗りうつってくる。75年は草木が生えない死んだ町と言われた広島にも、草木は繁り、川は流れ、若い命があり、笑顔がある。
だがそんな気持ちも、ページをめくるにつれ、いつのまにか絶望的な気持ちにすり替わってくる。そのあたりのことは実際に写真集を手に取ってみてもらいたいのだけど、何も思わない人は思わないかもしれないし、何も気がつかない人は気がつかないかもしれない。それでも下手なプロが撮るよりも心をつかまれる写真集であることは間違いない。
写真集のタイトルは、映画の台詞にもある『Tu n'as rien vu à Hiroshima』(君は広島で何も見なかった)。僕にはこの台詞の発することが、映画よりもずしりと響いた。
(日本では『HIROSHIMA 1958』というタイトルで発売されている)


クリストフと、同行した通訳の2人は、昨晩遅くに福島のいわき市から日帰りで戻ってきたばかりだった。すでに疲れの色が顔に浮かんでいて、だけど、多くの来広する外人が見せる必要以上の気負いや神妙さといったものは、見受けられなかった。
昨日、「壊滅した町の光景」を、見てきたばかりなのだ。

僕は、その1958年の広島の写真集を、2人に渡した。


広島駅に到着した私たちはタクシーに乗り換え、ホテルに一旦荷物を預けてから、歩いて原爆資料館を目指した。アーケードで覆われた市内のメインストリートである本通りを爆心地の方へ向けて歩く。
久しぶりに通る本通りは「まぶしい」という印象を持った。外が曇っているせいで明るくみえるのかと目をこすってみたが、やはり明るく、まぶしかった。
どのウィンドウも明るくきらびやかに装飾されていた。
カフェやアパレルショップは10年前とは比べ物にならないくらい増え、どのテナントもまるで新築のような奇麗な外観を、照明が讃えていた。
節電が当たり前になった東京との差は、思っていたよりも歴然だった。

やがて本通りのアーケードを抜けると広島市の大動脈、太田川が現れる。本流から枝分かれしたうちの1つだ。
広島市中心部は複数の三角州から成り立つ街だ。
それゆえ、地下鉄の建設には向いておらず、今でも路面電車が市内の交通インフラの中心となっている。皆この路面電車に乗りながら車窓を通りすぎる原爆ドームを見て、大人になる。

三角州から三角州へは、いくつもの橋が渡っている。
パリのセーヌ川にも多くの歴史ある橋が渡っているけれど、その光景はどこか広島とダブるものがある。広島の橋の1つ1つにも歴史が文字通り色濃く刻印されている。
その橋の1つである、元安橋を渡りはじめると、右手に原爆ドームが見えてくる。
一本北側を渡っている「T字型」が特徴的な相生橋は、上空から目立つその特徴がゆえに、リトル・ボーイの的にされた橋だ。(実際の爆心はわずかに東へそれた)
その橋も見える。

橋を渡り、平和記念公園に入る。
慰霊碑までたどりつくと、3.11以後、ずっとおさえていた感情が溢れ出しそうになった。
「安らかに眠ってください 過ちは 繰り返しませぬから」
手をあわせて、目をとじて、祈った。

振り返り、2007年よりアメリカ人のスティーブン・リーパーが理事長を務める、原爆資料館へと進む。
私たちは、本館の東側にある資料館に入ると、地下1階の会議室に案内された。
扉の入り口には、講話者の方がすでに待たれていた。

とてもかぼそく、色白で、上品な高齢の女性だった。

髪は白く、短く整えられていた。
洋服に力なく浮かび上がる微かなおうとつやくびれが、体の細さを感じさせた。そこには決して年相応のものだけとは言い切れない、刻まれ、切り取られた痕のようなものを感じさせた。目を合わせると、人を見定める事の無い、至公と呼ぶべきまなざしが、小さな2つの黒目の奥で、静かに揺れていた。

仲介している館の職員の方から、被爆者の略歴や注意書きを書いた資料をそっと手渡された。それから扉を開け、100人は入るであろう広い会議室の中へ通された。仲介者は、被爆体験講談者のことを、「先生」と呼んでいた。僕はだだっ広い会議室を一番前の方へ進みながら、先生とは決して呼ぶまいと思った。
松本都美子さん。
松本さん。

振り返ると仲介者はいつの間にかいなくなっていた。

13:00〜14:00の回の講話の聴講者は私たち3名だけだった。
一番前まで進んで、演壇に松本さんをお通ししようとしたら、「今日は少ないんで、高いところから話さなくてもよろしいでしょうか?」と提案された。僕は「もちろんです」と言って、近くの椅子を集め、4名が円になるように椅子を並べた。
僕は無意識に椅子に座るのをさけた。大きな男3人がかぼそい高齢の女性を取り囲むように座るのは、どうしても気がひけたからだ。
同じ目線は無理だ、と思った。
僕は、松本さんのできるだけ近くに寄り、演壇の台に腰掛け少し見上げるような姿勢をとった。
かばんからメモ帳を取り出し、ボールペンを手にとった。
クリストフは差し支えなければ記録させていただけますか?と伺い、ボイスレコーダーのスイッチを入れた。
通訳は、通訳を交えさせていただくことのご容赦とお断りを入れた。
僕も、ボイスレコーダーで撮らせていただこうかと迷ったのだけど、その時ふつと村上春樹の言葉が浮かんだ。

結局のところ———と僕は思う———文章という不完全な容器に盛ることができるのは不完全な記憶や不完全な思いでしかないのだ。

ボタンは押さず、ペンをにぎりしめた。
それが、正しかったのか正しくなかったのかは、分からないけれど。



***



被爆体験講話
2011年4月22日 13:00〜14:00
平和記念資料館 東棟 地下一階 会議室1にて


ふだんは原爆の少し前のところからお話させていただいているので、そこからお話させていただいてもよろしいでしょうか?

———よろしくお願いします。

昭和18〜20年(1943〜45年)にかけて、食料事情は大変ひどくなっていきました。
配給制となり、ごくわずかに与えられた物は、米、麦、小麦粉、さつまいも。それらをおかゆにして食べるような生活でした。食べるものはほとんどありませんでした。

Q(河村、以下省略)、お米も食べる事ができたのですか?
A、はい。少しでしたけど。
Q、それ以前、昭和18年頃までは、食料は普通に食べられたのですか?
A、普通に食べる事ができました。お店で買って食べていました。

当時は、東京や、大阪で空襲が増えているという話でした。
広島にも軍の司令部がたくさんあり(※1)、空襲に備えていました。

Q、広島市内も当時空襲はあったのですか?
A、空襲警報は鳴るものの、実際爆撃を受ける事はありませんでした。

私は当時、女学校の2年生で爆心地から1.4kmほど離れた学校に通っていました。13歳でした。小学校の子供たちは、田舎の方へ疎開をしていったのですが、私たちのような女学生は毎日学校に通い、その頃はもう夏休みというものもなくなり、建物疎開や、校庭に畑を作る作業、竹槍の練習、防火訓練などをして過ごしていました。
衣料品は買う事ができず、衣料切符と交換してもらい、女性はみんなもんぺをはいていました。
スカートははけませんでした。

8月6日は、朝から空襲警報が鳴り響いていました。空襲警報が鳴っているときは学校に行かなくてもよかったので、横堀町の自宅にいました。しばらくすると警報は鳴り止み、それから学校へいきました。(※2
私の家は、相生橋というT字型の橋があり、そこから700m西にありました。当時は私たちのような元気な者は、バスや電車に乗ることは許されていませんでした。私は家から相生橋を渡り、ドームの前を通って学校に通っていました。
 
学校につき、校庭では朝礼がはじまるところでした。
私は皆より少し遅れて出ていきました。
朝礼台の前まで来た時、それは今まで見たことがない、ものすごい光に会います。

ピカーッと光るオレンジ色の光でした。恐ろしい光でした。

それと同時に爆風が起こります。
私は飛ばされて、校舎の下敷きになりました。
私はしばらく瓦礫の下に埋もれていました。どれくらい経ったか分かりませんが、やがて意識を取り戻し、ようやくそこからはい出る事ができました。
瓦礫から出ると、一面真っ暗でした。何も見えません。

Q、真っ暗というのはどれくらい真っ暗だったのでしょうか?それはやはりきのこ雲が太陽を遮っていたからでしょうか?
A、私はきのこ雲の真下にいましたので、きのこ雲は分かりません。ただ、とにかく真っ暗でした。

その日学校では、生徒は380人というたくさんの人がいましたが、私が瓦礫から出た時には、一人の生徒にも、先生にも会うことはありませんでした。
あたりは瓦礫の山で、歩く道もなくなり、いったいどこに逃げればいいのか、誰に聞けばいいのか分からず途方に暮れました。
家に帰りたいと思いました。
でも帰る道がありませんでした。

私は少し考え、比治山(※3)に行く事に決めました。
そこに行けば避難できるかもしれない、そう思ったからです。でも歩く道はありませんので、瓦礫の上を歩きました。瓦礫の下からは、いろいろな声がしてきます。
「助けてください。助けてください。」「暑い、暑い」と泣き叫ぶ声、赤ちゃんや子供たちの泣き声、いろいろなものが瓦礫の下から聞こえます。でも私にはどうして上げることもできませんでした。

比治山の手前の鶴見橋の手前までなんとかたどりつきました。
鶴見橋は壊れていましたけど通れました。
その頃になるとまわりが少しずつ明るくなりはじめました。

橋の手前には建物疎開でできた少し広い広場がありました。そのあたりには髪がちぢれ、顔は赤黒く膨れ上がり、皮膚は焼きただれ、男女の見分けもつかないような人たちがおられました。

その光景を見てはじめて、私は自分の体がどうなっているかが気になり、頭に手をあてて確かめました。
ガラスの破片でざらざらしていました。刺さっているガラスもありました。髪はちぢれていました。私は後ろから爆風を浴びました。後ろの首筋、背中、両手、足。ふくらはぎの皮膚はずるっとかかとまで垂れ下がっていました。
気分が悪くなり、私はしゃがみこみました。
後ろを見ると、火の手が迫っていました。

皮膚がただれてやけどをした人たちは、体が熱くて、土手から川にたくさん飛び込んでいきました。私も飛び込みたかったのですけど、土手から飛び込む勇気がなくて、飛び込めませんでした。川に飛び込んでいった人たちはそのまま亡くなられていきました。

橋の上は皮膚がどろどろになった人たちが同じように比治山の方を目指して歩いていました。皮膚が溶けてずり落ちないように、おばけのように腕を前に出して歩いておられました。
山の正面側は被爆していたので、山の裏手にまわって、防空壕を探しました。

Q、防空壕がそこにあることは皆知っていたのですか?
A、はい、知っていたと思います。

防空壕はすでにたくさんの人であふれておりました。
みなうめき声をあげながら、飛び出した目玉を戻そうとしている人、飛び出した内蔵を戻そうとしている人もおられました。

Q、防空壕の中では何か「会話」のようなものはおこなわれていたのでしょうか?
A、いえいえ会話なんてありません。ただうめき声や叫び声などがありました。

しばらくすると、軍のトラックがやってきて、そこから府中(※4)の学校へ収容されました。
そこにはもうたくさんの被爆した人たちが収容されておりました。
私はそこで、ようやく知っている人に出会えました。
5人の友達と、1人の先生でした。
友達も先生も、顔がかぼちゃのようにふくれあがっていました。友達は胸のほうも焼け、裸同然になっていました。

私は横たえられました。
隣に横たえられた友達は、ずっと訳のわからぬことをうめきながら、いつの間にか息をひきとっていました。亡くなりますと、死体はむしろごと引きずり出されます。校庭の真ん中に山のように積まれていきます。

治療の順番はなかなか自分にまわってきませんでした。手が足りないのです。
体中が痛かったけれど、耐えて我慢していました。
治療の順番がまわってきたのは、その日の夜のことでした。
ただ、薬はないので、油を塗って終わり。それだけでした。

Q、油というのは、、?
A、よく分かりませんが、食用油とかそういうものだったと思いますが、ブリキの容器に入った油でした。

2日目になりました。
4人の友達、1人の先生、みな亡くなられていきました。
次は自分の番だな、そう思いました。

日にちが経つに連れ、あたりにひどい臭いがたちこめてきました。
吐き気や、熱、寒気がしてきました。
部屋に蠅が集まって来て、やけどのじゅくじゅくした皮膚の上に卵を植え付けていきました。
やがてその卵が孵化し、うじがわいてきました。
うじがはえずりまわる激痛を私は声を出さずにこらえました。

人がどんどん亡くなっていきました。
それに連れて部屋が広くなっていきました。

やがて1人の親切な方がうじをとってくださり、甘い葡萄ジュースをくださったりしました。
連絡するところがあれば、連絡するからと言ってくださりました。
私の祖母は安佐北区(※5)のおじのところに疎開していて、そこに連絡するよう頼みましたが、随分距離があるので、私は諦めていました。でもその方は行ってくれました。

やがておじが迎えにきてくれました。
私はしばらくおじの家でお世話になることにしました。両親も兄弟もいない生活は、とても不思議な気がしました。田舎にはお医者さんがいませんし、薬もありません。当時は、火傷にはきゅうりを擦った汁が効くといわれていましたので、おばあさんが、きゅうりを擦っては塗ってくれました。

その頃から体に異変が起き始めました。

何も食べてないのに、げりや出血、歯茎から出血しました。体中にはんてんができはじめました。
誰も放射能の影響だとは分かりませんでした。私はこれは火傷の影響なのだなと思いました。

母と3歳の弟の遺骨が横堀町の自宅の焼け跡から発見され、送られてきました。
もう一人の5歳の弟は外に遊びに出ていたため、今でも行方が分かりません。

お父さんは、爆心地から西に2km離れた観音町という所で仕事をしていて、被爆しました。ケガも火傷も負ってなかったけれど、西の方は、黒い雨が降ったそうです。その黒い雨に濡れながら、一生懸命私たちをいろんな収容所を巡り、探したそうです。

9月になってから父が安佐北のおじの家に現れました。
父の具合はだんだん悪く、頭をもたげてうなだれて体が動かせず寝たきりの状態になっていました。
私の火傷は、きゅうりのおかげで少しづつよくなっていきましたが、火傷の上にケロイドができ、皮膚が突っ張り、肉がもり上がり、ケロイド状になって残っています。髪の毛も抜け始め、手も爪の先まで火傷しましたので、乾いた爪がポロポロと抜けてきます。
火傷は少しづつよくなってきましたが、まだ歩けません。

11月になると、父の体調も少しずつよくなり、市内に戻ることにしました。いつまでもお世話になるわけにはいかなかったので、焼け跡にバラックの家を建てて、移りました。
私は歩けなかったので、大八車に載せてもらって移動しました。

しかし、なんにもない広島市内でどんな生活ができるのか、本当に不安で物を言えませんでした。
食べ物はもちろんありませんでした。
かぼちゃやさつまいものの茎などを食べました。
75年は何も生えないと言われていたが、雑草が生えてきていました。
雑草でもなんでも食べられるものは食べました。

戦後は、戦争中よりはましな生活が待っているのだと思って少し期待しておりましたが、現実はもっとひどいものでした。
父は再び具合が悪くなり、ほとんど動かなくなってしまいました。
収入がない生活が続きました。

1946年2月から私は、再び学校に再び通い始めました。
お金はもちろんありませんでした。
学校だけは出させてやりたいと、田舎から学費の補助をいただき、学校に通わせてもらいました。
学校には40人1クラスくらいの生徒が集まりました。
私たちは収入がなかったので、焼け跡で鉄くずを集め、闇市(※6)で売って野菜に換えたりして生計をたてていました。

やがてアメリカが作ったABCC(原爆傷害調査委員)ができ、月1回くらい、連れていかれ体の検査をされました。

父は体がつらく「死にたい死にたい」とずっといっていました。
昭和23年(1948年)5月、自殺しました。

Q、お父さんは、ABCCの調査対象外だったのですか?つまり黒い雨による被害は想定されていなかったのでしょうか?
A、はい、そうです。

昭和24年(1949年)に私は学校を卒業させていただきました。
卒業すると仕事を探しました。

しかし、被爆者には仕事がありませんでした。多くの被爆者が、1週間働き、1週間家でうろうろする、そんな生活が続いていました。
私は昭和27年(1952年)に仕事を見つけました。私が働いたのは半年だけです。
ある日、お店の中で大量の血をはいてしまいました。
そのころはもう、精神的にも肉体的にも苦痛を体に溜めていたので胃潰瘍を患っていました。
胃を2/3切り、輸血しましたが、輸血がひどいものだったらしく肝炎になってしまいました。

私は仕事を無くしました。
「早く死んでしまった方がよかったんじゃないか」と思うようになっていきました。
やがておばあちゃんが亡くなりました。
私は一人ぼっちになってしまいました。
しばらく家でずっとひきこもっていました。

ある日、友達に声をかけてもらい、私は助けてもらいました。
こうしてなんとか今日まで生き延びる事ができたのは友達のおかげです。


戦争は悲惨で残酷なものです。原爆というものは、全人類の命を奪うだけでなく、動物、植物全てのものを無くしてしまい、残留放射能は、地球の未来までも無くします。どんなことがあっても、使ってはいけません。世の中が、静かで、豊かで、平和であることを願っています。




Q(クリストフ)、質問させていただいでもよろしいでしょうか?今福島にある原発も平和利用とは言われながらも原子力を使っています。いま、福島のことをどう思われていますか?
A、原発も同じ核。放射能の影響はすぐに影響がでなくても、ずっと検査を受け続けなければならない。死ぬまで検査を受け続けなければならない。被曝された方は本当に大変でお気の毒だと思います。


Q、第五福竜丸事件のあと、日本はもっとも反核の運動がどんどん高まっていったと思うのですが、広島はその時どうしていたのでしょうか?
A、たくさんの人が集まってデモがありました。

Q(クリストフ)、失礼でなければ、今おいくつか教えていただけませんでしょうか?
A、79歳になります。私は被爆後50年たって、やっと人前でお話できるようになりました。それまでは原爆のことを考える事が苦痛でした。耳にすることさへ、とても辛いことでした。今、右手は箸も持ったり軽い作業はできるが、はさみを使ったりはできません。私はこの体は自分の体であって、自分の体でないのだと思っています。伝える使命感を感じるようになり、伝えよう、伝えなければいけないと思うようになりました。


***14時を経過***

Q、お時間になってしまいましたが、もう少しお伺いしてもよろしいでしょうか?
A、私は大丈夫です。今日はこの部屋はこの後も空いていますから。みなさんがよろしければ。


———ぜひよろしくお願いいたします。


Q、終戦の知らせをどこで聞かれましたか?そしてそのことをどのように感じられましたか?
A、安佐北区のおじの家でラジオで聞きました。くやしかったです。負けたことがくやしかった。あんなにがまんしてきたことが無駄になってしまったと思った。

Q、戦況が劣勢になるにつれ、その状況はどのように伝えられ、どのように考えられていたのでしょうか?負けるということは思っていなかったのでしょうか?
A、沖縄に来たという情報を聞いて少しまずいのかなと思ったくらいで、まさか負けるとは思いませんでした。これだけ我慢しているのだから負けるなんて考えもしませんでした。

Q、歴史を誤認していてはいけないので、お伺いしたいのですが、被爆後、闇市が広島市内にでき復興の一旦を担っていくわけですが、統治機能がなくなった広島市で、ヤクザが統治をしたという歴史は事実なのでしょうか?
A、事実です。進駐軍が来るまでは、ヤクザが所場代などをもらって、統治をしていたと思います。

Q、進駐軍が次第に広島市にやってきて統治をはじめてきたとき、どういう感情を覚えましたか?
A、・・・憎んだ。米軍を憎みました。チョコレートなど甘いものを配っていたけれど、私は絶対に受け取りませんでした。絶対に受け取ってやりませんでした。

Q、受け取ったのはもっと幼い、状況をよく分からない子供たちだったわけですよね?
A、そうです。小さな子供たちは喜んで受け取っていきました。

Q、広島市内でも被曝者に対する差別が横行していたのでしょうか?またそれはどのような差別だったのでしょうか?
A、・・・ありました。差別はありました。差別を受けました。

Q、広島市内の、被爆をしたところでも、なんですよね?
A、そうです。うつると恐れられたり、よけて通られたり、子供が奇形児が産まれると言われたりしました。とても悲しかったです。私はケロイドを見られないように、夏でもずっと長袖で過ごした。半袖なんか着たことがありません。
今年の夏は半袖やノースリーブになってみたいと思ってるんですけどね・・・勇気がないです。

Q(クリストフ)、差し支えなければ教えてください。ご家族はいらっしゃるのでしょうか?
A、はい。昭和28年(1953年)に結婚しました。

Q(クリストフ)、ご子息は?
A、はい。女の子2人に恵まれました。奇形児が産まれると心配されたけど、今でも丈夫に過ごしています。



———ありがとうございました。



核は絶対に使ってはいけません。戦争はいけません。
このことをどうか受け継いでください。



<参考資料>
Wikipedia:広島市への原子爆弾投下
YouTube:The Effects of the Atomic Bomb on Hiroshima and Nagasaki



大きな地図で見る




***

(※1)広島市は、日清戦争当時、大本営が敷かれ、一時的に首都の機能が移転されていた。広島城には中国軍管区司令部が置かれ、市の南部には、陸軍の射的場、船舶の司令部もあった。また三菱などの軍需工場もあり、船舶の部品などを製造していた。 →戻る

(※2)8月6日の朝(Wikipediaより) →戻る

(※3)爆心地から東に1.5kmくらいの所にある、標高70mくらいある小高い丘。上記地図参照。 →戻る

(※4)爆心地から北東4〜5kmくらいのところにある町。 →戻る

(※5)爆心地から北に12km以遠にある区。 →戻る

(※6)流川や広島駅の前などにあった。 →戻る


2011年4月9日土曜日

青年団第62回公演 『革命日記』

作・演出:平田オリザ

【福岡公演】
6月10日(金)~12日(日) ぽんプラザホール
【善通寺公演】
6月15日(水)四国学院大学 ノトススタジオ
【伊丹公演】
6月18日(土)~19日(日)AI・HALL(伊丹市立演劇ホール)

2010年5月の本公演初演時から参加。
あの頃と作品に対するモチベーションは変わらない。
なぜなら、青年団は一貫して、集団と個の相関関係を描き、人間の堕落や腐敗、無意識の罪をユーモアとペーソスを持って描いている。
こういう悪夢のような時代の節目も超えて、劣化しない作品に関わる事ができ、誇りに思う。

ぜひ観に来てください。

http://www.seinendan.org/jpn/info/2011/06/kakumei/

2011年4月4日月曜日

大震災のほとりで(1)

ちょうど大震災が起きた時、僕は東横線の渋谷駅のホームに足を降ろそうとしているところだった。揺れを自分が感じるよりも前に、駅員のアナウンスの妙さの方に気をとられていた。
3月11日、14時46分ごろ、その構内に響いた声は確かこんな感じだった。
「た、ただいまダイヤが乱れてお、おります!」
強く、途切れ途切れな声が耳に入ってきて、どうして到着するやいなや、ダイヤのアナウンスをこんなに慌ててするんだろう、そう思ったとき、視界がゆっくりと傾いた。
後で考えてみると、おそらく電車が停車するよりも前に揺れは始まっていたのだろう。ダイヤが乱れています、のアナウンスの理由は結局のところよくわからなかった。駅員は混乱していて、「地震の危険」を伝えるのではなく、何故か「ダイヤの乱れ」を伝えた。
いずれにしても駅員の混乱した声は、常規を逸した非常な事態を伝えるには十分だった。

僕たちの電車は、揺れの中ぎりぎり停車することができ間一髪のところで扉を開けることができた。のだと思う。これも後から分かったことだけど、その時分、線路上にいたほとんどの電車が、その後数時間ものあいだ線路上に取り残され、乗客たちは缶詰にされたのだから扉を開けてもらえたのは不幸中の幸いだった。

ともあれ、気持ちが悪いほど司会が大きくゆるりと傾き、足がよろめいた。

体は左に傾いているのに、視界は右に傾く、まるでだまし絵のような感覚だった。
それが地震だと気がついた瞬間、直感的にまず上を見上げた。弱そうなアーチ上の屋根から何か降ってくるんじゃないかと思ったからだ。
ここから一刻も早く脱出しなければならない、そして頭を何かで覆わなければならない、そう思って頭にかぶせたのは、右手に持っていたこの本だった。
右手の人差し指は、時代が1930年代に突入したちょうど半分を超えたあたりをしおり代わりに挟んでいて、そのまま片手でぱっと開いて傘を作るにはうってつけだった。ハードカバーの本は傘にもなるんだな、そんな事をかすかに思いながら改札を目指して壁沿いに駆けた。直前に読んでいたのが、関東大震災を経た後の時代だったのもあって、目の前の地震に対し、脳が強制的にデジャヴュを起こそうとしていた感じをよく覚えている。あるいは、走馬灯とデジャヴュが混じっていたのか、とにかく脳が妙な覚醒の仕方をしていたのをよく覚えている。

ともあれ、周りの人々がしゃがんだり、混乱しているのを横目に一気に改札を駆け抜けた。それから、階段を降り、地上に出た。その頃にはこの地震がどこかにろくでもないことを引き起こしているという疑いようのない不安が頭を満たしていた。

地上の光景は一瞬で全身の毛をよだたせた。
みな、時間が止まったかのように、立ち止まって空を見上げている。
もしかして「ドラゴンヘッド」みたいなことが起き、火山灰でも降ってきているのかと、おびえて同じように空を見上げたら、向かいの建設中の高層ビルの屋上の2体のクレーンが、くるくる回りながら揺れている。まるでクレーンに命が宿り首長竜に化したかのようで、そいつらが暴れているように見えた。

首長竜にざわつく渋谷を横目に、僕は次に乗り換える予定だった井の頭線へ向かい、電車が止まっていることを確認するとオフィスに向かって文化村通りを小走りで駆け上がりはじめた。
家電がひっくり返っているんじゃないかと心配していたヤマダ電機はそれほど混乱した様子もなかったけれど、ドンキホーテは店を閉め、客を中に入れないように店員が外で警備していた。
詳しい状況が分からず、電話もメールも通じないので、とにかくオフィスに向かって歩き続けることにした。途中にあった八百屋のラジオから流れてくる音で震源が宮城の方だということが分かった。八百屋にはめずらしく小さな人だかりができて、みんなラジオに耳をすませていた。

(書きかけ)

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この5年間はずっと、学校で教えてもらえなかった、20世紀前半に起こったことを自分なりに調べたりして考えてきた。だけど、これからは、もう少し20世紀中盤を調べようかな。